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03.伏見の桃と橘南谿

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 伏見は「伏水」ともいい、水、清く豊かであることから、江戸時代より京都の酒どころとして広く知られていた。ちなみに、「桃山」というのは、元和9年(1623)に伏見城が廃城となった後、付近一帯に桃が植樹されてからの名称である。
 伏見というところは洛中よりも気候が温暖なため、果実などの栽培に適する土地であった。また、水運の港としても栄えていたので、商品の流通がスムースであった。豊かな水と温暖な気候、交通の利便性から、桃だけではなく梅の木も多く植えられていたこと、『都林泉名勝図会』の本文に記されている。「五郎太町、福寿庵、大亀谷、八科嶺」にかけて、つまり、桃山城跡の北部一帯が「梅渓」であったことが知られる。
 「梅渓」について詠んだ伴蒿蹊の和歌が『都林泉名勝図会』巻之三に載る。

見さく放事も今ゆくかたも伏み山 梅より外の色はまじらず
 蒿蹊は、『近世畸人伝』を出版した寛政2年(1790)頃には洛南の地に住居を構えていた。洛南という土地は温暖であり、おそらく、若年より患っていた持病を平癒するには適地であったと推測される。蓮華王院近くに移居する前年、寛政六年に、蒿蹊は六如、菅茶山、らとともに、巨椋池に遊んでいる。このとき同席していた『東西遊記』の著者として知られる橘南谿もまた、晩年になってから病を養うために伏見に移居している。その頃に著されたのが随筆『北窓瑣談』である。このなかで南谿は、桃山の観月台について、
かくのごとく明媚にしてしかも艶なる風景はなし
 と、絶賛している。季候がよく風光明媚な桃山は、彼にとっては終の棲家として最良の地だったのであろう。
 伊勢国の人である南谿は、伊藤東所に従学した佐野酉山に入門し、漢学を学んだ。伊藤東所は、皆川淇園、六如、小沢蘆庵、伴蒿蹊、円山応挙らの属する妙法院宮眞仁法親王を中心とした芸文サークルのメンバーの1人である。南谿が『北窓瑣談』のなかで蒿蹊について言及しているのも、このような人脈により彼らとの親交を深めていたためであろう。
 江戸の随筆家、津村淙庵は、隠居した後、京坂に旅行にやってくる。寛政5年(1793)に伏見近辺を散策し、その時のことを『思出草』のなかで次のように記している。
野みちにかゝるほど梅いとおほく、咲きたるところあり、梅谷といへる村なり。ひきつゞき桃の樹あまた十町ばかりはさながらうへつゞけたるわたりをすぐ。こは桃山成べしとうちつけにおもはれて、さきだちゆくうばにとへば、しかなりとこたふ。
 淙庵は、伏見城の鬼門に祀られている御香の宮(現在の御香宮社)に参詣し、御香の宮の南門を出て五郎太町に向う。そしてその道すがらに、梅の季節であったから桃の花はまだ咲いてはいないけれども、梅の香に桃の香を重ねながら、「桃山」であることを実感したのである。
 文化3年(1806)、蒿蹊は73歳、淙庵は71歳で没している。その活動拠点は京都と江戸と異なってはいるが、同時代を生きた人である。

From:『きょうと』36号(2003年 3月 )