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37.高台寺の萩見

Source:『再撰花洛名勝図会』巻三

 『再撰花洛名勝図会』巻三には、「高臺寺秋興」と題した、高台寺境内、松林の中、床几を並べ、観萩に興じる人々の姿を描いた風俗図が収載されている。この挿絵に伴う本文の記述は以下の通りである。

また、涼風わたる秋の日には、萩花紫雲に等しく咲き乱れたる。そが中に、床几を置き並べて酒籏の人を招き、顔に飄へる文士騒士のここに集ふ媒とも成りて、老媼の茶を勧め少女の盃を把って、なまめかしく浮かれよるなど、いと心にくし。後山には菌茸あまた生ひぬれば、晩秋の上旬より、都下の児女輩己がまにまに狩り得んとて群れ集まり、あるは酔あるは舞ひ謡ひ戯れて楽しみを尽くす。これ当院の一佳境にして、また東山の一壮事ともいふべし。
 観萩や茸狩りに興ずる人々で賑わった当時の高台寺の様子が、最後の一文で理解される。
 挿絵を詳細にみていくと、日よけの傘を差した女性や、刀を二本差した侍、法体の男性など、多くの人々で賑わってる様子が判る。ここにある茶屋のお仕着せは縦縞で、客に給仕をしたり案内しているのが判る。左下の床几では、主人を待つ丁稚と女中とが楽しげに会話を弾ませている。その傍らには、瓢箪に入った酒が置いてある。
 高台寺の成り立ちは、豊臣秀吉の菩提を弔うために、北政が創建した寺院である。このような経緯から、瓢箪は秀吉の旗印で、挿絵に描かれた瓢箪は秀吉の換喩的表現なのだと考えられるのである。絵に描かれた細部のアイテムからも秀吉ゆかりの土地であることが理解されるのである。
 本居宣長は、宝暦7年(1757)の8月6日、萩見のために高台寺を訪れたこと、『在京日記』のなかで以下の如く記述している。
さて高台寺へまふづ。南の方の門より入て、山上にのぼり見れば、萩の花はすこしさかり過かた也、されど尚よし。茶見せの床几にやすらひ見るほど、本庄七郎といふ人、また何某とかやいふ人とふたり出来り、一ツ所にやすむ。とかくするうちに空くもり、雨ふりなんけしき也。
 『在京日記』をみると、宣長は京都の町を散策する途中、しばしば雨天に遭遇し「からきめ」にあったと記述している。高台寺での萩見の後、夕立になり、「からきめ」にあうのは嫌だということで早々に引き上げたため難を逃れた、と続けている。

From:『あけぼの』第34巻第5号